アメタマのたまり場

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命の価値

私は今年で大学4年になる。

まさに就活真っ盛りというわけだ。

 

そんな折に就職系のコラムで興味深い記事を見つけた。

その一つの記事から伸びた思考をここに置いておこうと思う。

 

発端となった記事について

 

発端の記事で書いてあったことは以下通りである。

 

「面接で、あなたの腕を2億円で切り落とせるか。と聞かれた。

私は、NOといった。

面接官はそれに対して、あなたの腕は今2億円を生み出せるのかと聞かれた。

その質問で私はその会社へ入る気が失せた。」

 

正確には覚えていないがこんな内容だった気がする。

 

この2億円という数字は生涯年収によるものであると思われる。

労働政策研究・研修機構の「ユースフル労働統計2021」によると、

一番低い生涯年収は高校卒で10~99人の企業で働いている方で約2.2憶円。

一番高いものになると大学卒かつ1,000人以上の企業で働く方で約3.7憶円。

 

以上が面接官のいう2億円の根拠なわけだが、

少々、提示する額が少なすぎる気もする。

最近の統計を確認していないということが露呈してしまっているのだが

それは今は触れないでおこう。

 

腕の価値

 

ここで私が考えたのは、

その腕の価値はいくらであるか、ということである。

わかりやすいので両腕の価値を金銭に変換しようとしようと思う。

 

ここでまた面接官の発言を考えよう。

 

この面接官の発言を要約すると、

生涯年収=腕の価値

ということになるわけである。

 

しかし、腕を失うことによる機会損失は全く考えられていない。

 

もちろん腕を失えば、腕を使った趣味を行うことができなくなる。

 

私は考えた。

そういった楽しみやできることを失うのは金銭に換算するといくらだろう。

 

少なく見積もってもその趣味を行う初期費用は損失といえよう。

長く続けていたり、労力をかけていた趣味を失った痛手は計り知れない。

 

これらを金銭に直して考えるために時間的観点で考えて見たいと思う。

 

時間的測量

 

趣味に熱中しているもので

平日は2時間、休日は8時間行うと考える。

 

これらの時間の算出もある程度根拠のある考えから導いている。

 

平日は睡眠8時間、

労働9時間で計17時間。

通勤で2時間、

身の回りのことで3時間程度かかるとして、

残り2時間。

これをすべて趣味にあてると考える。

 

休日は労働が趣味に置き換わると考えて差し支えないだろう。

休憩時間込みでの9時間なので8時間で考えた。

残りの時間は好きに使うだろうという私の詰めの甘さが少なからず見える。

 

以上が使う時間に対する根拠である。

 

これが新卒として入社してからずっと行える仮定する。

(実際は環境の変化や気分の変化によって固定的に時間が取れるわけではないが。)

 

新卒として入社してから死ぬまではおよそ60年。

これは「厚生労働省令和3年簡易生命表の概況」の主な年齢の平均余命から概算している。

 

1カ月4週として平日と土日だけで計算する。

1週間の構成は平日5日、休日2日として、

5日×2時間+2日×8時間=26時間

26時間×4×12カ月=1248時間

1248時間×60年=74880時間

となる。

 

日付に換算すると3120日、

年数に換算すると約8.5年になる。

 

失った8.5年を生涯年収から考えると、

少なく見積もっても以下の通りになる。

 

18歳から定年である65歳まで働いた生涯年収が2.2憶円。

つまり、47年が給与所得の対象となる。

生涯年収を給与を受け取れる期間で割ると、

約486万円/年である。

486万円×8.5年=4131万円

である。

 

つまり、腕を失ったことによる趣味の分野での損失は4000万円弱である。

この時点で腕の価値は、

面接官の考えている以上の価値があることはわかってもらえたと思う。

 

命の価値

 

さて、この文章の題名にもなっている命の価値を考えたい。

 

腕の価値は少なく見積もっても

2.6憶円以上になっていることは上記で示していると思う。

 

では命の価値はどうか。

 

命の値段を示す明確なものは、

死亡事故の賠償金だろう。

 

アトム法律事務所の弁護士解決ナビによると

死亡慰謝料は2000万円~2800万円ほどらしい。

 

つまり、命の値段はこの程度との認識がなされているといっても差し支えないと考える。

(拡大解釈であると指摘されても反論できる材料は全くない)

 

国土交通省の後遺障害等級表によると、

後遺障害の第一級の場合は死亡慰謝料より少し多い3000万円がもらえるようだ。

 

神経麻痺の場合は3000万円~4000万円ほどらしい。

 

後遺障害は障がい者等級と同じものであると考えていい。

障がい者等級は後述する。

 

両腕を失うことは、

「身体障碍者福祉法施行規則別表第5号」障害程度等級に照らし合わせると

両上肢の機能を全廃したものに該当し、

1級と判断しても差し支えないと思う。

 

その他の1級要件を見ると、

日常生活が極度に制限されるものとの記載がほとんどである。

 

結論だけ言うと、命の価値は私にはまったくわからない。

命の価値はとても多岐にわたる要素から決定される。

 

これ以下は私見が多分に含まれており、

気分を害する可能性があるので読みたくない場合はブラウザバックを推奨する。

 

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以下私見

 

私は自由を重んじる。

自由は自立と合わせて初めて効力を発揮するものである。

 

障害を持っている状態では私の求める自由も自立も不可能である。

私に障害があることによって選択の幅も狭まる。

他者の手を借りなくては生活もできないので自立もできない。

 

そんな状態になるくらいなら〇んでしまった方がマシである。

 

これが私の考えである。

 

では腕をなくしたらどうだろう。

 

もちろん自立はできない。

趣味も仕事も自由には選択できないだろう。

 

そんな自由を制限された状態で生きようと私は思わない。

 

交通事故の慰謝料からわかる通り、

神経系の損傷の場合、四肢の欠損より価値が高いらしい。

 

以上のことから私の命の価値は腕や身体的自由よりも下、ということになる。

 

しかしここで不思議なことが起こる。

 

私の命の価値は交通事故の要件に照らし合わせると、

せいぜい2~3000万円程度である。

 

しかし、身体に付随する「腕」という一部の価値はそれを上回る。

 

このジレンマはパソコンにも少し似ているので、

世間ではそこそこあることかもしれない。

パソコン本体の価格より、グラボ単体価格のほうが高いということがある。

 

話を戻そう。

 

命の価値についてだが

交通事故の慰謝料でもせいぜい2800万円

である。

 

これを命の価値と断定するのはいささか疑問が残る人も多いと思う。

 

命にいくら払えるか

 

そこで私が考えたのは第三者目線に立って判別する方法である。

 

映画や小説のワンシーンで見たことあるのではないだろうか。

 

人が二人いる。仮にAとBとしておこう。

Aはとても危険な状態で今すぐにでも死にそうだ。

Bは助ける手段を持っている。BはAに尋ねる。

「お前が助かるためにいくら払う?」

 

こういうことを言うキャラクターは

「相手の命を何だと思っている」とか、

「人の心はないのか」とか

罵声罵倒を浴びせられることも多い。

 

こういうシチュエーションは命に価値を見出す人は金を出すので、

稼ぎ時であり資本主義の中での選択は間違っていないと思う。

 

その際あなたがAならいくら出すか。支払えるぎりぎりの額を提示するか。

逆にBの立場ならいくら請求するか。支払えないくらい法外な額を提示するか。

 

また、別のシチュエーションで考えてみよう。

 

あなたは悪魔と取引をする。

悪魔は何でも願いをかなえる代わりにあなたの寿命を99パーセント奪う。

あなたはこの願いで金銭を要求する。それはいくらか。

 

また、この悪魔が奪う人の寿命があなたのとても親しい人なら、

友人なら、知人なら、見ず知らずの人なら、

あなたはいくらもらうのか。

 

前者のシチュエーションではいくらで命を買うか、

後者はいくらで命を売るかである。

 

あなたとどれくらいの関係の人をいくらで買い、

いくらで売るのか少し考えてみてほしい。

 

友人の命を売買する際、友人を失う傷心をいくらで買うのかということでもある。

それは友人の友人も傷心することにつながるが、

その精神的苦痛はいくらに換算されえるのか。

考えなくてはならないことはとても多い。

 

まとめ

 

以上のことから

私は命に価値をつけるのは無意味であると思う。

その理由は命の価値のつけ方は決まっていないことと

つけたところで無意味であることであることにある。

 

自分に自信がなく、価値がなく、他者に証明しなくてはならないという考えを持っている人はあなたに価値がない理由を深堀してみるといい。

少しでもあなたの心が軽くなることを願っている。

 

なお、命の価値は金銭で決まらないなどという批判は議論の軸をぶれされるものなので感知しない。

 

最後に、他者と議論をすることは悪いことではない。

他者との議論を避け、他者の意見を頭ごなしに否定し、認めないこと、

これらが批判されるべきである。

 

他者に意見を否定されるのが怖いと思うかもしれない。

その際は親しい人と意見を交換したり、

他者を批判しないというルールを制定したうえで話すといい。

 

意見に寛容になり、不寛容には不寛容になる。これが議論の一歩であると私は思う。