アメタマのたまり場

アメタマが思い立ったら書くブログ

「友達とは」という私の悩み

ぼくは何歳からか忘れてしまったが友達がわからなくなってしまった

 

友達の定義がわからない、と言ったら

そんなわからないもの考えてどうするの、

と一蹴されてその人のことを嫌いになったこともあった

 

無事その人とは仲たがいをした

 

私は決して友達が多い方ではない

遊んだことがある人は小学校のころを除けばせいぜい10数人だし、

親しいと呼べる友人は片手で数える程度である

最近人と遊んだ記憶は数か月前であるし

直近で連絡をもらったのは誕生日を祝われたくらいだ

 

こう書いていると友達には恵まれているのだと感じる

 

友人の人数が少ないと前述したのは私の悪い癖について少し話したいからだ

私は人間関係で嫌なことや取り返しのつかないことをしてしまった場合、

その人間関係を切ってしまう癖がある

 

その癖を認知し始めたのは高校1年のころである

私が所属していた部活で同学年の人に恋をした時だ

所属していた部活の部員たちは仲が良く休日に遊びに行ったりしていた

そんな中思春期真っ只中で不器用な私はとてもうまいとは言えないアプローチをした

結果は察してもらえると助かる

 

そうなって私が恐れるのはそのコミュニティで後ろ指をさされることだった

感情の制御が苦手で表に出してしまうためとても見ていられなかっただろう

ブルーな空気に包まれていたと思う

そんな状況に耐えかねて私はその関係を切った

具体的には部活を辞め、SNSもすべてつながりを絶った

 

幸いクラスメイトが所属していたが教室では仲良くしていなかったため

詰められることはなかった

当時気にかけてくれた部長を裏切るような形になってしまった事だ

今となってはどうでもいいことだ

 

その後の高校生活はゲームが中心に回っていった

決して人間関係が順風満帆とは言えないが

今でも一緒にゲームをする友達はその時にできた

 

大学に入ってからはSNSで友達を作るという試みを初めて行った

SNSは発信するものではなく見るものだった私からすれば

とても大きな一歩を踏み出したものだった

それによりかけがえのない友達を見つけることができた

唯一苦言を呈するのならば異性の友人である点である

 

異性の友人などそれまでいなかったため距離感がわからない

それでもいろいろ話したり、遊んだりして仲を深めていくうちに距離感を

なんとなく理解していった

こんな僕とも仲良くしてくれて、とてもうれしかった

 

 

ここまで私の友達の話をしたが

私は友達が何なのかわからない

 

一緒に遊んで楽しい人は友達なのだろうか

こっちが一方的に思っているだけかもしれない

その遊び自体が楽しいのではないのか

 

相互に友達だと思っていれば友達なのか

確認の方法はあるのか

一方的ではだめなのか

 

そんな他人から見たらめんどくさい思考をしている

 

私が最近読んだ書籍では

友達とは昔はぶつかり合ってわかりあうものだったが

現在では衝突をしないように空気を読みあうものに変容しているのだという

 

私が悩んでいることがここにすべて出ているような気がした

 

私は深いことを話せる友達がいない

片手の親指、かろうじて人差し指を使うくらいにはいる

しかし、頼りたいときに頼れるかは別だし、

頼れるときにもはぐらかしてしまうことも多くある

 

そんな中で人に悩みを相談したい、話して整理したいという自分の欲望

これを満たすために他人の時間を使えないという思考が重なると話すことはできない

 

そういった形で悶々としていると友達ってわかりあうものではないのか

などと自分に都合のいい甘い戯言で思考が染まってしまう

私の悩みはこれに尽きる

 

つまり私は友達であるかどうかの是非より

私が友達だと思っている人間の私的利用は相手の負担になるためできないけどしたい

という理性と欲求の戦いに悩んでいるのではないだろうか

 

もちろん新しい友達を作る際に

一回遊べば友達かどうか

これ以降誘ってもいいものか

社交辞令ではないか

など考えるがまったくもって無意味である

なぜなら2回目遊ぶときに誘うことなどほとんどないのだから

誘うときは1回目に話が弾んだ時くらいだろうが

私と話を弾ませることは天地がひっくり返るくらいのことである

 

私のように自分を卑下し、話題の少ない人間と話すのは骨が折れるだろう

今後仲良くしたい人(いないとは思うが)はとても苦労を掛けると思う

僕はこういう性格なのであきらめてくれ

この一言に尽きる

私の友人に向けては

ご愁傷様

と自分と関わることになった不幸に対して

謝罪ではなく相手のことを気遣った言葉を贈る

 

 

それでは締めに入る

 

何かを考え続けることは私のアイデンティティを保つライフワークのようなものである

だからそれを否定する人は私に対する否定のようにとらえて

過剰反応してしまったのだろう

最初の文章を見返し、今結論付けたことだ

 

友達とは何か

今の私の定義としては

1.楽しいことを一緒にやってもいいかなって思える人

2.相手のことを考えて発言しなかったり、行動しなかったりできる人

3.たまに愚痴を聞いてほしかったり、飲みに行きたいなと思える人

4.相手の話を聞いてて楽しい人

のいずれかに当てはまる人ではないかと考えている

2つ目と4つ目は現代では人類総配信者時代なのでいろいろなとらえ方ができると思う

私としては友人と思ってもいい人にあてはめて考える前提で書いている

 

最終判断は恣意的である

恋人もそうであるのだからそれよりも広義の友達が恣意的でなくてどうする

自分が相手のことを嫌いなら友達ではないし、相手のことを好きなら友達なのだ

バカみたいな結論だが前述の恣意的が一番当てはまるのだろう

 

今までの話は否定されない前提であるが

友達という単語に反応して違うと否定してくるやつは

総じて友達ではないということだけ念頭に置いて生活していけばいいのかもしれない

 

話が通じれば友達、通じなければ友達でもない

遊びの誘いに乗ってくれば友達、そうじゃなければまた誘う

 

そんな気楽に考えることは私にはできないけれど

昔みたいに遊びに誘って友達みたいにはいかないけれど

口下手で不器用で不愛想な僕だけれど

友達なんていてもいなくても変わらないのだから

相手が興味をもって近づいてきたら相応に返してあげるくらいが

ちょうどいいのかもしれない

 

所詮は他人で私の人生を生きてくれるわけではないのだから

微妙な距離感で相手にもらったら返す

そんな感じで生きていきたい