アメタマのたまり場

アメタマが思い立ったら書くブログ

読書感想文「明るい夜に出かけて」佐藤多佳子

明るい夜に出かけて 佐藤多佳子

 

 

 

この本は現代ならではの青春小説だろう

この話にはSNSやラジオ、アメーバピグ、ニコニコ、ツイキャス等が出てくる

そういったものを通じて人間関係の形成や崩壊が起こるのは現代らしいと言える

今でこそマッチングアプリSNSからの出会いというものは一般化しているが、

いつからこういった事が一般化するようになったのかはわからない

そしてこの本のあとがきが2016年夏

その時私が何をしていたか覚えてもいない

おそらくゲームを呼吸を止めながら集中してやっていたことだろう

今でこそSNSで発信したり配信したりしているが、当時はネットは怖いものという認識だった

そんな中でネットに手を引いてくれた友人には頭が上がらない

とりあえずその友人には感謝を

 

 

この物語の概要と感想

 

ラジオのはがき職人として有名だった主人公富山

他人との接触が非常に苦手

大学に入ってできた彼女からの接触を拒絶してしまいネットで晒された

それが原因で晒されて大学を休学し、コンビニの夜勤をやりながらラジオを聞いて生活している

ラジオを聴いていても心に負った傷からはがき職人として復帰できないまま

 

ある夜、いつものようコンビニで仕事をしていると富山が好きなラジオ番組の特別な缶バッジを2個もつけた少女に出会う

そこから物語が加速していく

 

同僚で歌い手の鹿沢

JKで深夜ラジオのはがき職人の佐古田

元同級生の永川

 

この3人との交流がネットとリアルで起こっていく

それに最初は乗り気でないけど徐々に仲良くなっていく主人公

触発される主人公

 

主人公は流されて生きているような描写が多い

その描写が僕は人間っぽくてすごく好きだ

いかにも若者っぽい

でもしっかりと最後は自分の道を自分で見つけて生きていく

所々、流されるだけじゃなく

しっかりとした決断ではないけれども

一歩踏み出すように思えたところはとてもステキで残酷に思えた


佐古田(バッジ女子)は文化祭で劇をやった

そのタイトルが「明るい夜に出かけて」

この本のタイトルとなかなかどうして一緒である

その劇を見た主人公は触発される

ここでももうかなりのネタバレだと思う

でも一言だけ言わせてほしい

何かをすごい熱で作っている人って

やっぱりそれを見た人も作りたくなってしまうんじゃないかな

これは最近感じて落ち込んで考えたことの一つでもあってタイムリーに感じた

 

イムリーといえば

僕は最近朝井リョウさんの「何者」を読んだわけだが

今回読んだ「明るい夜に出かけて」の文庫版で解説を書いていたのがその当人で

ぺらっとめくって思わず笑ってしまった

こんなことってあるんだなぁと

運命なんじゃないかって思った

そんなものがあればきれいだろうけど

 

 

最後に

僕も何か書いてみようかなって思って今書いています

それは本に触発されたり

人に触発されたり

場所に触発されたり

自分のものではないかもしれないけれど

やってみるだけやって楽しむことがいいんじゃないかなって

こういう形でも伝えることで義務感が生まれるのは嫌いだけど

今回は伝えてでも完成させたいって気持ちの方が強い

このブログを読んでくれる人が何人いるかわからないけれど、

承認欲求がないなんてきれいごとを言えなくなったけど

いいでも悪いでも何も言わずでも僕が消える時まで付き合ってくれると嬉しい、です

 

それでは

読書感想文:「何者」朝井リョウ

私は朝井リョウの「何者」を読んだ。

読書感想文ということでどうにか文章を書いていきたいと思う。

 

読んだ感想は、

内臓をえぐられるような辛さと、でも面白いと思ってしまう自分の形を保つのがやっとという自分でも感想なのかどうか微妙なものである。

 

つい最近まで(?)就職活動を行っていた人間が読むにはあまりにも辛い。

というわけではなく登場人物の行動に思い当たる節がありすぎてダメージを受ける。

 

何もやっていないのに発信するSNS

成果をあげられていない努力報告

何者かになろうとしている自分

頭の中ではなんでも最高傑作なんだよ

傍観者のつもりなの?

 

殺傷力の強い登場人物のイタさは自分を映しているようでとても痛かった。

 

考え続ける100点より出し続ける10点20点。

僕には何もない。続けてきたものがないから。

そう思って何かを始めるけど続かない。

 

そんな人生の積み重ね。

このブログですら誰かの笑いものにされている。

薄っぺらい人間の書く薄っぺらい内容のブログ。

 

見る価値もないんだろう。

でも、書く価値はある。

僕が救われて、僕が楽しい。

 

そんな理由で書いて

誰かの目にたまたま触れて

誰かが少しでも何か考えてくれたらと

それで書いていく。

 

就職がうまくいかない理由は薄っぺらいから。

人生がうまくいかない気がするのも薄っぺらいから。

何者になるかではなく、

積み重ねたやってきたことが何者かに見えるんだろうなと。

 

登場人物がかっこ悪いと思ったことはない。

就活がみんなで同じ方向見ていて気持ち悪いも

名刺を就活生で作ってみるも

人の内定企業を心の中でどうせと思うことも

実は全部やっている。

通っている道なのだ。

 

それでも僕は劇団で脚本を書いてもいなかったし、

海外へ留学も、コラムの執筆も、実行委員も、バンドもやっていない。

それだけで何者かであると思う。

 

それが僕の感想である。

 

細かい点は書き疲れたのでこの辺で失礼する。

とても面白い本だった。

去年読みたかったと思う。

ありがとう。

8月27日の妄執

私は8月27日にライブへ行った。

 

規模からすれば200人程度の収容のライブハウスで

大きいとは言えないが、決して小さくもない。そんな規模のライブ。

 

そこでライブを演じたのが水槽というアーティスト。

私がいつも聞いている曲を書いて、歌っているその本人だ。

 

ライブチケットもとても軽い気持ちで買ったし、

ライブ当日もとても軽い気持ちで参加した。

 

チケットの購入は軽い気持ちと言いながら、チケット購入画面に張り付いていたし、

ライブ当日もこういう服なら気分も上がるしと柄にもなく古着屋でシャツを買ったりした。

 

当日は15時から物販で、

どうしても欲しいものがあったから早めにと思ったが、

いつもぎりぎりで行動している人間がそんなことができるはずもなく。

その日は15分くらい前に待機列に並んだ。

 

もうついている人いるのか、とか

こういうところで交流の輪を広げたり、とか

SNSを見ているとそういう気持ちにさせられるが、現着して無理だと思った。

 

そういうものって見ているときだけ忘れるんだなと。

僕は人に話しかけるのとかすごく苦手だよな。

結局ネットでしか饒舌になれないネット弁慶

 

物販もその時が来るまで待った。

事前に今回のコンセプトアルバム「夜天邂逅」に加えて、

「首都雑踏」「事後承継」も聴いておいてとお達しがあったので

ミックスプレイリストでランダムに聴いていた。

 

物販の待機は思った以上に待たなかった(気がする)。

音楽を聴いていたからか、本を読んでいたからか。

15分が思っている以上に短いからかもしれない。

 

いずれにしろ物販の時間になって、

解放されたWALE&WALEのエントランスへ入る。

その時に一番感じたのはカビ臭さである。

 

おそらくコンクリ建築特有のものであるが、

地下施設なので換気がしづらい環境であることと

空調と外気による寒暖差で水滴がついてそうなるのだろう。

 

煤けたカビ臭いにおいはアングラ感がすごくて好きだ。

そう思いながら何を買おうかスマホを取り出し考える。

本当は前日に何を買うかはまとめている。

事前に物販情報はSNSに提供されている。

 

会場で売っていると思っていなかったほしいTシャツもあったけれど、

Tシャツがこれ以上増えるとTシャツ屋さんになってしまうのでやめておいた。

少し前にシャツとTシャツを買ったばっかなんだ。

 

シガレットケースは売り切れとTwitter(X)で見たので少し自慢したい気分で。

タバコ吸わないのに。

Tシャツもステッカーも自慢できる相手もいないが。

でもうれしいことは確か。

それが確かめたいだけ。

 

その後はライブまで時間があるから、

気になっていたジンを提供する店へ。

少し離れたところにあったけど前々から行こうと思ってたし。

ノンアルのジントニックを一杯。

 

ライブは18時、入場は17時。

チケットは番号順の入場だった。

途中まで知らなかったけど、スタッフさんに聞いたら教えてくれた。

優しい。ありがとう。

 

ドリチケとか初めてだったけどそんなことを気にする余裕もなかった。

一円玉くらいのプラスチックトークンだった気がする。

 

荷物ロッカーもあったけど僕のリュックは入らなかった。

降る予定と聞いた雨は降らなくて、持ってきた折り畳み傘は邪魔になっただけだった。

ドリチケと交換でもらったジンソーダもそう。

グラスで提供だから邪魔になる。

ライブが始まる前に飲み干した。

 

僕は会場の中央付近に陣取っていたがステージがよく見えた。

まだライブの始まっていない会場は半そででは少し寒かった。

照明は暖色で、ステージ横の2台の八連スピーカーとか頭上の証明や空調設備とか、会場の構造とか。

そわそわしてたから何でも見た。

 

ステージに表示されている「ENCOUNTER」のロゴを見ていると不安になる。

僕がステージをやるわけでもないのに。

周りを見ても誰かと来ている人がとても目について。

待機列でもそうだった。

 

一人じゃ居づらい場所な気がしていた。

早く始まらないかな。

会場のアナウンスで右後方詰めてってというのも覚えている。

憶えている、憶えている。

 

ライブが始まった。

コンセプトアルバムは全9曲。

それぞれの曲にキャラクターがいて、

その人たちの人生を描写するような曲。

 

それに加えて今まで水槽の作った曲が9曲。

今回のコンセプトアルバムの曲の合間にキャラクターがその曲を聴いているという設定で歌っていた。

 

コンセプトアルバム曲に入る前には、

そのキャラクターの考えや心境を語る数行の文章が雑踏の音と一緒に表示された。

 

多くは憶えてないけれど、

イントロは終わりの「何者かにならないと」

ブルーノートの「嫌いになった訳じゃない。無理になっただけ。そのうちまた好きになるかも。」

極東よりの「何にも考えてなさそーって言われるけど、何にも考えてない奴なんていないよ。」

という言葉は憶えている。

 

自分に突き刺さったからだろう。

 

ライブではジャンプまではしなかった。

足首を使って上下したり手を振ったりはしたが。

柄にもなく調子に乗って全身で楽しみながら、周りに迷惑なんじゃないかとか考えてたんだけど。

背高いと後ろの人見づらいだろうなとか、

途中まで考えてたけどやめた。

 

なんでかは憶えてない。

ライブがよくてかもしれないし、チケットの番号のことを考えてたかもしれない。

 

ライブで流れた曲は18曲。

僕がその中でも好きなのは

・夜天邂逅

・NIGHTOWL

・呼吸率

・極東より

・タクシージャック

・ハートエンド

・遠くならせ

 

本当は全部好きなんだけど。

それぞれにいいなって思ったところはあるけど。

絞り込むのにさんざん悩んだけど。

 

じゃあ、なんで選ばなきゃいけないんだろう。

僕が選んだ曲に何か共通する何かがあるかもしれないからこのまま残しておく。

未来の僕のために残しておく。

 

ライブ会場は空調が効いていたはずなのに熱かった。

機材の熱気によるものか、会場の人の熱気か。

僕も類にもれず熱気をまとっていた。

 

しっとりとした曲も盛り上がる曲も

その場にいる全員が知っていて、その場にいる全員で楽しんだ。

少なくとも僕はそう思う。

 

歌い方は劇を演じているように感じて、

ステージをやっているみたいだった。

 

最後の曲、「ハートエンド」「遠くならせ」が終わった後、

少し間が開いた。

 

おそらくアンコール待ちなのだろうと思った。

僕はそれがなぜか嫌だった。

求められているものが見え透いて抵抗感があった。

今思えば幼稚だなと自分の行動を少し反省する。

 

とにかくその時は声を出してアンコールはできなかった。

アンコールのコールを空気を察して、勇気を振り絞ってできた人間は

水槽のライブじゃなくてもいいと思うよ。

そんな捨て台詞を今考えた。

 

自分にできないことができる人はどうにも受け入れがたい。

大抵の人間そうじゃないかと僕に吐き捨てる人にはヘッドバットをお見舞いしてやろうと思う。

思うだけ。

吐き捨てるだけだから許してくれ。

 

アンコールで出てきた水槽は

「この曲はバンドでやりたい曲」

といったので、バンドが出てくると期待したが

はにかんだような笑いで訂正する。

 

「やりたかった曲だ」

わかりやすく言い直したが

本当は今でもバンドでやりたい曲なんじゃないか。

そう思う。

 

水槽は打ち込み音源で音楽を作っている。

そんな人間が「私はバンドが好きなんだけど。打ち込みで音楽を一人で作ってて。みんなにはあんまり違いがわからないかもしれないけど。で、私にはバンドでやる人生もあった。選べたけど一人でやることを選んだ。」

という言葉の重み。

 

アンコール曲「白旗」

 

降伏を意味するこの二文字を掲げながら音楽で表現していく。

その気持ちは何もない僕にはわからない。

わからないけれどとても良い曲で、

良いライブで、

良い夜だった。

 

終わった後は外へ出て、

渋谷まで行って飲もうと思ってた。

 

都心は案外近いから歩くことも結構ある。

その日も自らの熱を冷ますように歩いて渋谷へ行った。

 

 

ライブ終わりからいまだに心が返ってきているように思えない。

渋谷で飲めなくて、

地元で何件か回って、

カラオケに行って一人で歌って。

 

次の日も

飲んで、

歌って。

起きて。

寝て。

起きて。

 

未だに僕の心は物足りなさをおぼえる。

 

テーマパークにあるゲートは現実に帰るという区切りの意味もあるという。

ゲートを通っていないからだろうか。

 

その街に生きていない僕が現実に帰ってくるのは地元の駅なのに。

ついても現実に帰れない。

飲んでも現実へ帰れない。

家に帰っても。

シャワーを浴びても。

布団に入っても。

一向に帰れない。

 

取り残された心を探して、

今日も8月27日の妄執に取りつかれて

 

補足:

私は水槽さんは好きだけど嫌いだ

理由はたぶん妬み嫉み

何かをやっている人ってかっこいい

それで結果を出している人はもっと

そんな人と何もやっていない自分を比べてしまう

この前「水槽さんは推しじゃないの?」

と聞かれることがあった

私の中では推しではない

だって推しには嫉妬なんてしないでしょ

推し方には人それぞれあるのかもしれないけれど

私はこんな風に思って推しているとは言えない

だから好きで嫌い

自分で何か表現をしていく中で

一緒に仕事ができる機会があればうれしいとは思う

だから私は

なにかを望んで

今後も泥臭くても恥ずかしくても

なにか表現していきたいと思う

 

以上妄執から脱した人間の戯言

家族について:補記

前回書いた「家族について」を書き終えたが、

もやもやした気持ちが収まらずこれを書く

 

 

私は「家族」に対して疑問に思うことがある

 

私は家族仲が悪い方ではない

 

だからといって決していいとは言えない

 

お互い深くかかわらないからこそ、仲が悪くなっていない

(良くなってもいないが)

 

だからといって親や兄弟から悪い扱いを受けているわけでもない

 

むしろそれでも私に対して友好的に接しているのはなぜだろう

 

特に母親は私に対して物を買おうとしたり、

イベントに誘ったりする

 

就職に関しても知り合いを紹介するなどサポートが手厚い

(養うことにならないようにしたいのかもしれないが)

 

そういった優しさに対して私はとても不思議に思う

 

投資対象として子供は正直言ってギャンブル性が高いと思う

 

現代においては特にそうだ

 

個人の時代と言われ、自助努力で何とかするという思考を持った人間に

助けてくれと頼むのは難しいと思われる

 

私に対しても優しくしたからといってその優しさが返ってくるとも限らない

 

むしろマイナスの印象が強いため

介護などしてやるものかと考えているくらいである

 

不安要素を家族意識で払しょくするのは個人の時代では難しい

 

それでも家族に優しくする価値はあるのだろうか

 

私は家族に優しくすることで家族内での扱いをよくしてもらう

 

要するに共同体、コミュニティーの中での生存率を高めるため

日々の行いをよくしているわけである

 

それは私のコミュニケーションにおける最重要項目であると

この文章を書いている際に頭で結論付けられた

 

私は人が怖い

 

言葉と態度とは裏腹に何を思っているかわからない

 

私のいないところで、私に見えないところで

 

私に対してよくないことを行っているのではと常に疑心暗鬼である

 

それゆえ争いを避け、人からの評価を少なくとも無害で保とうとする

 

これを幼少のころから家族に対して行っていた

 

特にひとり親であるから母親に対しては力をいれて行っていたと思う

 

優秀であるようにふるまい、可愛いと思ってもらえるような行動をとる

 

それにより叱責を避けていた(教師からは怒られることもあったが)

 

そういった生存戦略を長い間とっていたため

現在の私にも染み着いているのだろう

 

話がそれた

 

家族が私に優しくする理由

 

子供だからという理由はあまりピンとこない

 

必要最低限育つまでにリソースを割くという手もある

 

しかし、私の親はどう考えても必要最低限とは思えない

それ以上の援助をしようとしてくる

 

それが私は納得できない

 

親はお金がないだとか、家計がやばいだとかいう

 

私は親の給与や支出を管理しているわけではないのでその言葉を鵜呑みにする

 

それでも親から「〇〇買ってあげようか」など言われる

 

金がないという話は嘘なのだろうか

 

私は親の意図も発言も全くわからない

 

それを優しさと受け取っているがそれですら私の思い込みである可能性も高い

 

人の優しさも善意も裏が見えないと信用できない

 

私でも安心できる裏を提示してくれる(または嘘でも裏をみせてくれる)

そういう人にしか安心できない

 

何処からこんなにものの見方がひねくれたのだろう

 

家族の善意をこうもねじ曲がって解釈する人間に成長してしまった

 

母さんごめん

私は社会で生きるのに向いてなさそうです

 

ひねくれた考えと、モノの見方と、etc

 

私が家族という共同体に疑問を抱くのは

自分がねじ曲がっているからなのだろう

 

あなたの家族はどうだろう

 

あなたに対して何か得になることをするだろうか

 

はたまた損になることをするだろうか

 

それはなぜそうしているのだろうか

 

ひねくれた人間のひねくれた疑問で自身の身の回りを当たり前と思わない

私の疑問を種として考えてほしい

 

私が少しでも報われたいというエゴを満たすために

 

家族について

家族と聞いていい思い出がある人もいればそうでない人もいる

私はいい思い出の方が多いように思うが今はそれに疑問を感じ始めている

 

それは私がうまくいっていないことに対する責任転嫁で

自己正当化的な考えであることは自分でもわかっている

 

ただ、こうやって疑問に思ったことを書くことで自分の整理や

読んでくれている人の何かしら役に立てられればと思い書いている

 

家族とは人間社会の最小単位である

 

血のつながりによって様々な恩恵を受け、義務をまっとうする

 

私の親はその親(私からすると祖父母に当たる人物)にかなり束縛されていたせいか

私ら子供に対してそういった事はあまりなかった

 

と言いたいが、成長に支障があるから夜は早く寝ろと言われて育っている

 

そんな言葉に従わなかった際には夜中まで正座をさせられていたり、

下着一枚で家の前に放り出されたりしていた

 

私の兄がゲームをやって夜更かししていた時にはゲーム機を真っ二つにへし折ったりと

言語化すると散々なやりようであった(私と兄の共用であったため私にも弊害がある)

 

しかし、私には一人しかいない親のため従うしかない

 

私は幼少のころから注意力が散漫で忘れ物をよくしたが、

成績自体はとても良かった

 

それを自分の心の支えにしていたといっても過言ではない

 

そこで結果を出せばほめてくれる、怒られない

 

今思えばそういった風に行動していたのかもしれない

 

こういった事を今考えても記憶の美化や

都合のいいように改ざんしていることもあるため信ぴょう性は薄い

 

だが、それによって立ち返る契機にはなった

 

私は家族というものに愛着が大してない

 

嫌いというわけではないが、そこまで仲がいいわけでもない

 

特に兄についてはコミュニケーションの手法がめんどくさい

 

自分の都合が悪くなるとヒステリックを起こすし、一方的な会話を仕掛けてくるし

 

母親についても現在は問題ないが人の尻を触りまくるし、

自分が家計を握ってることを利用して優位に立とうとしてくる

 

正直書いていることも一部ではあるがうんざりする

 

だが血縁というのはそれだけ長い時を過ごしているため理解も多少はあるし

助けてくれることもある

 

良い面より悪い面が目立つのは記憶により鮮明に残るからだろう

 

兄は私にいろいろな知識を教えてくれるし、昔は遊びにも付き合ってくれた

 

母も家事も仕事もやっているし、私を様々な場所へ連れて行ってくれた

 

いいところはちゃんとあるのだ

 

私が親や兄に対していい行いばかりしているわけでもない

 

もちろん相手に対して悪いことも多くやってきた

 

自分のやってきたことを棚に上げて考えてしまう私は悪者なのだろうか

 

自己正当化をしている時点で今更ではあるが

 

ただ最近は孤立化が進んでいるため良い印象より悪い印象が目立つのだろう

 

 

本題に入る

 

家族とは何だろう

 

血縁関係にある親類や血縁になくとも親類に属するものだろうか

 

戸籍上の家族と実質的な家族(籍を入れていないが長くともに過ごしている関係)は

どちらも家族といえるのだろうか

 

心だけつながっている家族と体(血縁)だけつながっている家族

 

様々な形態の家族がある

 

子供がかわいい、親を信頼している、愛されている、共存関係を築けている家族

 

子供が疎ましい、親が憎い、愛がほしい、共依存関係を築いている家族

 

幼少のころの記憶というのはその後の発達に大きく影響を及ぼす

 

例えば幼少のころに虐待を受けた子供が子供に虐待を働く確率が上がる

 

親から信頼されている子供は自己愛がしっかりと育ち自信にあふれたふるまいを見せる

 

親は子供に大きな影響を与える要素をはらんでいる

 

逆に親は自分がたどった苦労をしてほしくないとお金や労力をかけても芽が出ない

 

ほとんど労力をかけていないのに健やかに成長している

 

子供が親の経済面、心理面を左右している節も大いにある

 

いわばお互いがお互いにどこかで妥協しなくては幸せになれない現実に即した世界である

 

力関係は親の方が大きい

 

現代において金銭というものは生きていくために必要不可欠なものだ

 

それを握っている親の方が優位なのは当然のことである

 

子供は親に言われたらあきらめざをえないのである

 

子供もそこは交渉次第と駄々をこねたり、脅したりと様々である

 

 

まとまりそうにないが

私が思うに家族とは力関係のアンバランスさの中で

互いに銃口を向けあう関係なのではないかと思う

 

親が子供じみた考えや力の誇示によって子供を制してしまうのは簡単だ

 

それを一生引きずる子供も少なくないだろう

 

強者は強者なりに気を使って弱者を打倒さなくてはいけないし、

弱者は引き際を見極めないと手痛い返り討ちにあう

 

家族関係とはある種の戦争なのではないかと思う

 

力だけでは解決しないこともあるし、解決の方法を間違えると共倒れになる

 

こんな文章を書いた後に少しでも家族のことで明るい気持ちや暗い気持ちになったのであればこれほどうれしい気持ちはない

 

そうなったら改めて家族と家族のつながりについて話してみてもいいのではないだろうか

 

家族とのつながりなど所詮は他人に毛が生えた程度である

 

真に自分の理解者となるのは自分だけなのだから

 

              おわり

 

「友達とは」という私の悩み

ぼくは何歳からか忘れてしまったが友達がわからなくなってしまった

 

友達の定義がわからない、と言ったら

そんなわからないもの考えてどうするの、

と一蹴されてその人のことを嫌いになったこともあった

 

無事その人とは仲たがいをした

 

私は決して友達が多い方ではない

遊んだことがある人は小学校のころを除けばせいぜい10数人だし、

親しいと呼べる友人は片手で数える程度である

最近人と遊んだ記憶は数か月前であるし

直近で連絡をもらったのは誕生日を祝われたくらいだ

 

こう書いていると友達には恵まれているのだと感じる

 

友人の人数が少ないと前述したのは私の悪い癖について少し話したいからだ

私は人間関係で嫌なことや取り返しのつかないことをしてしまった場合、

その人間関係を切ってしまう癖がある

 

その癖を認知し始めたのは高校1年のころである

私が所属していた部活で同学年の人に恋をした時だ

所属していた部活の部員たちは仲が良く休日に遊びに行ったりしていた

そんな中思春期真っ只中で不器用な私はとてもうまいとは言えないアプローチをした

結果は察してもらえると助かる

 

そうなって私が恐れるのはそのコミュニティで後ろ指をさされることだった

感情の制御が苦手で表に出してしまうためとても見ていられなかっただろう

ブルーな空気に包まれていたと思う

そんな状況に耐えかねて私はその関係を切った

具体的には部活を辞め、SNSもすべてつながりを絶った

 

幸いクラスメイトが所属していたが教室では仲良くしていなかったため

詰められることはなかった

当時気にかけてくれた部長を裏切るような形になってしまった事だ

今となってはどうでもいいことだ

 

その後の高校生活はゲームが中心に回っていった

決して人間関係が順風満帆とは言えないが

今でも一緒にゲームをする友達はその時にできた

 

大学に入ってからはSNSで友達を作るという試みを初めて行った

SNSは発信するものではなく見るものだった私からすれば

とても大きな一歩を踏み出したものだった

それによりかけがえのない友達を見つけることができた

唯一苦言を呈するのならば異性の友人である点である

 

異性の友人などそれまでいなかったため距離感がわからない

それでもいろいろ話したり、遊んだりして仲を深めていくうちに距離感を

なんとなく理解していった

こんな僕とも仲良くしてくれて、とてもうれしかった

 

 

ここまで私の友達の話をしたが

私は友達が何なのかわからない

 

一緒に遊んで楽しい人は友達なのだろうか

こっちが一方的に思っているだけかもしれない

その遊び自体が楽しいのではないのか

 

相互に友達だと思っていれば友達なのか

確認の方法はあるのか

一方的ではだめなのか

 

そんな他人から見たらめんどくさい思考をしている

 

私が最近読んだ書籍では

友達とは昔はぶつかり合ってわかりあうものだったが

現在では衝突をしないように空気を読みあうものに変容しているのだという

 

私が悩んでいることがここにすべて出ているような気がした

 

私は深いことを話せる友達がいない

片手の親指、かろうじて人差し指を使うくらいにはいる

しかし、頼りたいときに頼れるかは別だし、

頼れるときにもはぐらかしてしまうことも多くある

 

そんな中で人に悩みを相談したい、話して整理したいという自分の欲望

これを満たすために他人の時間を使えないという思考が重なると話すことはできない

 

そういった形で悶々としていると友達ってわかりあうものではないのか

などと自分に都合のいい甘い戯言で思考が染まってしまう

私の悩みはこれに尽きる

 

つまり私は友達であるかどうかの是非より

私が友達だと思っている人間の私的利用は相手の負担になるためできないけどしたい

という理性と欲求の戦いに悩んでいるのではないだろうか

 

もちろん新しい友達を作る際に

一回遊べば友達かどうか

これ以降誘ってもいいものか

社交辞令ではないか

など考えるがまったくもって無意味である

なぜなら2回目遊ぶときに誘うことなどほとんどないのだから

誘うときは1回目に話が弾んだ時くらいだろうが

私と話を弾ませることは天地がひっくり返るくらいのことである

 

私のように自分を卑下し、話題の少ない人間と話すのは骨が折れるだろう

今後仲良くしたい人(いないとは思うが)はとても苦労を掛けると思う

僕はこういう性格なのであきらめてくれ

この一言に尽きる

私の友人に向けては

ご愁傷様

と自分と関わることになった不幸に対して

謝罪ではなく相手のことを気遣った言葉を贈る

 

 

それでは締めに入る

 

何かを考え続けることは私のアイデンティティを保つライフワークのようなものである

だからそれを否定する人は私に対する否定のようにとらえて

過剰反応してしまったのだろう

最初の文章を見返し、今結論付けたことだ

 

友達とは何か

今の私の定義としては

1.楽しいことを一緒にやってもいいかなって思える人

2.相手のことを考えて発言しなかったり、行動しなかったりできる人

3.たまに愚痴を聞いてほしかったり、飲みに行きたいなと思える人

4.相手の話を聞いてて楽しい人

のいずれかに当てはまる人ではないかと考えている

2つ目と4つ目は現代では人類総配信者時代なのでいろいろなとらえ方ができると思う

私としては友人と思ってもいい人にあてはめて考える前提で書いている

 

最終判断は恣意的である

恋人もそうであるのだからそれよりも広義の友達が恣意的でなくてどうする

自分が相手のことを嫌いなら友達ではないし、相手のことを好きなら友達なのだ

バカみたいな結論だが前述の恣意的が一番当てはまるのだろう

 

今までの話は否定されない前提であるが

友達という単語に反応して違うと否定してくるやつは

総じて友達ではないということだけ念頭に置いて生活していけばいいのかもしれない

 

話が通じれば友達、通じなければ友達でもない

遊びの誘いに乗ってくれば友達、そうじゃなければまた誘う

 

そんな気楽に考えることは私にはできないけれど

昔みたいに遊びに誘って友達みたいにはいかないけれど

口下手で不器用で不愛想な僕だけれど

友達なんていてもいなくても変わらないのだから

相手が興味をもって近づいてきたら相応に返してあげるくらいが

ちょうどいいのかもしれない

 

所詮は他人で私の人生を生きてくれるわけではないのだから

微妙な距離感で相手にもらったら返す

そんな感じで生きていきたい

 

 

 

 

命の価値

私は今年で大学4年になる。

まさに就活真っ盛りというわけだ。

 

そんな折に就職系のコラムで興味深い記事を見つけた。

その一つの記事から伸びた思考をここに置いておこうと思う。

 

発端となった記事について

 

発端の記事で書いてあったことは以下通りである。

 

「面接で、あなたの腕を2億円で切り落とせるか。と聞かれた。

私は、NOといった。

面接官はそれに対して、あなたの腕は今2億円を生み出せるのかと聞かれた。

その質問で私はその会社へ入る気が失せた。」

 

正確には覚えていないがこんな内容だった気がする。

 

この2億円という数字は生涯年収によるものであると思われる。

労働政策研究・研修機構の「ユースフル労働統計2021」によると、

一番低い生涯年収は高校卒で10~99人の企業で働いている方で約2.2憶円。

一番高いものになると大学卒かつ1,000人以上の企業で働く方で約3.7憶円。

 

以上が面接官のいう2億円の根拠なわけだが、

少々、提示する額が少なすぎる気もする。

最近の統計を確認していないということが露呈してしまっているのだが

それは今は触れないでおこう。

 

腕の価値

 

ここで私が考えたのは、

その腕の価値はいくらであるか、ということである。

わかりやすいので両腕の価値を金銭に変換しようとしようと思う。

 

ここでまた面接官の発言を考えよう。

 

この面接官の発言を要約すると、

生涯年収=腕の価値

ということになるわけである。

 

しかし、腕を失うことによる機会損失は全く考えられていない。

 

もちろん腕を失えば、腕を使った趣味を行うことができなくなる。

 

私は考えた。

そういった楽しみやできることを失うのは金銭に換算するといくらだろう。

 

少なく見積もってもその趣味を行う初期費用は損失といえよう。

長く続けていたり、労力をかけていた趣味を失った痛手は計り知れない。

 

これらを金銭に直して考えるために時間的観点で考えて見たいと思う。

 

時間的測量

 

趣味に熱中しているもので

平日は2時間、休日は8時間行うと考える。

 

これらの時間の算出もある程度根拠のある考えから導いている。

 

平日は睡眠8時間、

労働9時間で計17時間。

通勤で2時間、

身の回りのことで3時間程度かかるとして、

残り2時間。

これをすべて趣味にあてると考える。

 

休日は労働が趣味に置き換わると考えて差し支えないだろう。

休憩時間込みでの9時間なので8時間で考えた。

残りの時間は好きに使うだろうという私の詰めの甘さが少なからず見える。

 

以上が使う時間に対する根拠である。

 

これが新卒として入社してからずっと行える仮定する。

(実際は環境の変化や気分の変化によって固定的に時間が取れるわけではないが。)

 

新卒として入社してから死ぬまではおよそ60年。

これは「厚生労働省令和3年簡易生命表の概況」の主な年齢の平均余命から概算している。

 

1カ月4週として平日と土日だけで計算する。

1週間の構成は平日5日、休日2日として、

5日×2時間+2日×8時間=26時間

26時間×4×12カ月=1248時間

1248時間×60年=74880時間

となる。

 

日付に換算すると3120日、

年数に換算すると約8.5年になる。

 

失った8.5年を生涯年収から考えると、

少なく見積もっても以下の通りになる。

 

18歳から定年である65歳まで働いた生涯年収が2.2憶円。

つまり、47年が給与所得の対象となる。

生涯年収を給与を受け取れる期間で割ると、

約486万円/年である。

486万円×8.5年=4131万円

である。

 

つまり、腕を失ったことによる趣味の分野での損失は4000万円弱である。

この時点で腕の価値は、

面接官の考えている以上の価値があることはわかってもらえたと思う。

 

命の価値

 

さて、この文章の題名にもなっている命の価値を考えたい。

 

腕の価値は少なく見積もっても

2.6憶円以上になっていることは上記で示していると思う。

 

では命の価値はどうか。

 

命の値段を示す明確なものは、

死亡事故の賠償金だろう。

 

アトム法律事務所の弁護士解決ナビによると

死亡慰謝料は2000万円~2800万円ほどらしい。

 

つまり、命の値段はこの程度との認識がなされているといっても差し支えないと考える。

(拡大解釈であると指摘されても反論できる材料は全くない)

 

国土交通省の後遺障害等級表によると、

後遺障害の第一級の場合は死亡慰謝料より少し多い3000万円がもらえるようだ。

 

神経麻痺の場合は3000万円~4000万円ほどらしい。

 

後遺障害は障がい者等級と同じものであると考えていい。

障がい者等級は後述する。

 

両腕を失うことは、

「身体障碍者福祉法施行規則別表第5号」障害程度等級に照らし合わせると

両上肢の機能を全廃したものに該当し、

1級と判断しても差し支えないと思う。

 

その他の1級要件を見ると、

日常生活が極度に制限されるものとの記載がほとんどである。

 

結論だけ言うと、命の価値は私にはまったくわからない。

命の価値はとても多岐にわたる要素から決定される。

 

これ以下は私見が多分に含まれており、

気分を害する可能性があるので読みたくない場合はブラウザバックを推奨する。

 

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以下私見

 

私は自由を重んじる。

自由は自立と合わせて初めて効力を発揮するものである。

 

障害を持っている状態では私の求める自由も自立も不可能である。

私に障害があることによって選択の幅も狭まる。

他者の手を借りなくては生活もできないので自立もできない。

 

そんな状態になるくらいなら〇んでしまった方がマシである。

 

これが私の考えである。

 

では腕をなくしたらどうだろう。

 

もちろん自立はできない。

趣味も仕事も自由には選択できないだろう。

 

そんな自由を制限された状態で生きようと私は思わない。

 

交通事故の慰謝料からわかる通り、

神経系の損傷の場合、四肢の欠損より価値が高いらしい。

 

以上のことから私の命の価値は腕や身体的自由よりも下、ということになる。

 

しかしここで不思議なことが起こる。

 

私の命の価値は交通事故の要件に照らし合わせると、

せいぜい2~3000万円程度である。

 

しかし、身体に付随する「腕」という一部の価値はそれを上回る。

 

このジレンマはパソコンにも少し似ているので、

世間ではそこそこあることかもしれない。

パソコン本体の価格より、グラボ単体価格のほうが高いということがある。

 

話を戻そう。

 

命の価値についてだが

交通事故の慰謝料でもせいぜい2800万円

である。

 

これを命の価値と断定するのはいささか疑問が残る人も多いと思う。

 

命にいくら払えるか

 

そこで私が考えたのは第三者目線に立って判別する方法である。

 

映画や小説のワンシーンで見たことあるのではないだろうか。

 

人が二人いる。仮にAとBとしておこう。

Aはとても危険な状態で今すぐにでも死にそうだ。

Bは助ける手段を持っている。BはAに尋ねる。

「お前が助かるためにいくら払う?」

 

こういうことを言うキャラクターは

「相手の命を何だと思っている」とか、

「人の心はないのか」とか

罵声罵倒を浴びせられることも多い。

 

こういうシチュエーションは命に価値を見出す人は金を出すので、

稼ぎ時であり資本主義の中での選択は間違っていないと思う。

 

その際あなたがAならいくら出すか。支払えるぎりぎりの額を提示するか。

逆にBの立場ならいくら請求するか。支払えないくらい法外な額を提示するか。

 

また、別のシチュエーションで考えてみよう。

 

あなたは悪魔と取引をする。

悪魔は何でも願いをかなえる代わりにあなたの寿命を99パーセント奪う。

あなたはこの願いで金銭を要求する。それはいくらか。

 

また、この悪魔が奪う人の寿命があなたのとても親しい人なら、

友人なら、知人なら、見ず知らずの人なら、

あなたはいくらもらうのか。

 

前者のシチュエーションではいくらで命を買うか、

後者はいくらで命を売るかである。

 

あなたとどれくらいの関係の人をいくらで買い、

いくらで売るのか少し考えてみてほしい。

 

友人の命を売買する際、友人を失う傷心をいくらで買うのかということでもある。

それは友人の友人も傷心することにつながるが、

その精神的苦痛はいくらに換算されえるのか。

考えなくてはならないことはとても多い。

 

まとめ

 

以上のことから

私は命に価値をつけるのは無意味であると思う。

その理由は命の価値のつけ方は決まっていないことと

つけたところで無意味であることであることにある。

 

自分に自信がなく、価値がなく、他者に証明しなくてはならないという考えを持っている人はあなたに価値がない理由を深堀してみるといい。

少しでもあなたの心が軽くなることを願っている。

 

なお、命の価値は金銭で決まらないなどという批判は議論の軸をぶれされるものなので感知しない。

 

最後に、他者と議論をすることは悪いことではない。

他者との議論を避け、他者の意見を頭ごなしに否定し、認めないこと、

これらが批判されるべきである。

 

他者に意見を否定されるのが怖いと思うかもしれない。

その際は親しい人と意見を交換したり、

他者を批判しないというルールを制定したうえで話すといい。

 

意見に寛容になり、不寛容には不寛容になる。これが議論の一歩であると私は思う。